軌跡
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行ってこい、八千代伝! 著:三代目当主 八木 栄壽 -蔵再興までの道のり‐
ー まえがき ー
猿ケ城渓谷のシンボル、刀剣山の上に満月が昇った。
満天の星々が、瞬く間に力を失ってゆく。
いつの間にか、むき出しの岩肌に月光が映えて、その代役を務める。
高隈連山の稜線のシルエットが、影絵のようになって深山の懐の大きさをうかがわせている。
猿ケ城蒸溜所の前庭に立って、この大自然のたたずまいに打たれながら、今日の仕込みを満足して終える。
 平成十六年十月。
三十年の思いと2年余りの準備期間を経て、焼酎造りが稼動し始めた。
そして、初蔵出しの真最中、ある人から「八千代伝」が生まれるまでをまとめてもらえないかという依頼が舞い込んだ。これからの十年、二十年どんな困難が待ち構えていようとも、原点に立ち返ることができれば、たぶんそれを乗り越えられる。
「初心忘れるべからず」
だから、今の思いを書き留めておきたいと自分でも考えていた矢先の事で、引き受ける事にした。
こんな私的な事を、読んでいただくのは気恥ずかしいし、軽薄の誹りを受けるかもしれない。
だけど、一人でもこの思いに共感し、「八千代伝」を愛してくれる人が現れたら、それでうれしい。
「人生のやり残しがないようにしろよ」
 蔵の若衆達が、立ち昇る湯気の中を、桶を担いで“俺はこんなに力があるんだぞ”と誇示するように走り回る情景が今でも鮮やかに蘇える。子供の頃から馴れ親しんでいたせいか、いつの日か焼酎造りをやるんだという気持ちは、まるで決まり事のように、自然と自分の中に宿っていた。
 だけどそのチャンスはなかなかやって来ない。機械設備はもちろん、建物すら朽ちてしまっては、莫大な資金を必要とする蔵の再興はおぼつかない。焼酎造りの復活を、決まり事のように思っている自分と、現実とのギャップは、あまりに大きかった。三十年が、いつの間にか過ぎていた。鼻っ柱の強い若造も、理屈や分別が少しは身についたように思う程の時間が流れていた。
 そして転機が訪れた。平成十四年晩秋、柿が枝もたわわに実った豊作の年だった。芋焼酎ブームの走りが来た、と思った。横並びの焼酎業界で、数年前から突出する銘柄が次々と出て来た事で、地産地消の代表格だった芋焼酎の市場が、どんどん広がって行く気配が感じられた。付加価値をつけた商品が、高額で飛ぶように売れていった。
三十年来の思いを、今こそぶつける時ではないのか。自分の勇気を試すように自問自答を繰り返してみた。
それでも踏ん切りはつかない。本当に市場は拡大するのか、需要は高まるのか、このブームは一過性じゃないのか。躊躇している私の背中を押したのは、父の一言だった。
「栄寿、人生のやり残しがないようにしとけよ。」
蔵再興の話を、一蹴されるのが怖くて持ち出してもいないのに、心の中を見透かされたような一言だった。さすがだと思った。
そして友が言った。「人生に悔いを残すな。蛮勇じゃダメだけど、チャレンジするチャンスがあったらやれ。オレはとにかく君に百万円投資する。必要なくても受け取れ。」まだ構想を話しているだけなのに、友の真情に打たれた。涙が出た。この二人の言葉を契機として、私にとってのドラマが始まった。
「夢を語り続けた」
 ほとんどの仕事を妻に任せて、無我夢中の日々が続いた。マニュアルのない手製の事業計画書は、三十ページにも及んだ。計画が出来上がってからも、その訂正、修正、焼き直し作業は困難を極めた。布団の中に持ち込んで、朝が白んでくる事もしばしばだった。
 とにかく、蔵を再興するためには、関連する様々なセクションに認知してもらう事、そして理解を得て協力してもらう事が、絶対条件だった。必死の作業が続いた。
説明し、説得し、夢を語り続けた。回を重ねていくと、少しずつ理解が深まって行く雰囲気が感じ取れるようになった。真剣に話を聞いてもらえるようになった。
 そしてまず県が動いた。
「判りました。この事業に支援法を適用しましょう。」平成十五年、長い夏が終わり、秋の気配が濃くなっていく頃、「中小企業経営革新支援法」の承認事業への門戸が開かれた。これは事業推進のために、大きな重しになる。ありがたかった。天にも昇るような気持ちで、家路についた。
「あなたの夢に付き合う気はない」
好事魔多し。「あなたの夢に付き合う気はない。」支援法をいただいた事で適用される、政府系金融機関の低利融資のお願いに、足繁く通った熱意が実らず、若い担当官の言葉に打ちひしがれた。
なぜだろうという思いを、なかなか払拭できない。「自己資金が足りないからだろうか。」「夢を語りすぎたのだろうか。」いくら考えても納得できる答えは見つからない。ただ国から拒絶された無力感が残る。だけどいつまでも引きずっていられない。後ろばかり見ていたら前へ進めない。忘れる事にした。

「捨てる神あれば、拾う神あり」

私の肩が落ちていたのかも知れない。父が言った。
「栄寿、世の中は“捨てる神あれば、拾う神あり”だ、気にするな。必ず拾う神が現れる。」
勇気づけられた。
本当だった。時を同じくして、鹿児島銀行の松崎住英支店長から事業推進の命運を決めた連絡が入った。
「やりましょう。私共で検討した結果、事業として十分成算があるという結論が出ました。前向きに対処します。」拾う神が出現した。
今度は、うれしくて眠れなかった。その後、紆余曲折はあったものの、支店長と丸野大樹さんは一貫してこの事業を支援・推進してくれた。銀行との共同作業が続いた。拾う神は、光り輝いて見えた。
“今”から振り返ると、途中いろいろな神に拾われてきた。世の中捨てたもんじゃないと思う。ただただ感謝しかない。
「好きに使え」
「垂水には、猿ケ城渓谷があるがな。蔵を作るならそこにしやんせ(しなさい)。」
地元の他のメーカーの人達も、気に掛けてくれていた。何くれとなくアドバイスをもらった。いつも暖かい雰囲気がありがたかった。自分でも、水がよくて、もったいない程の大自然に包まれた猿ケ城渓谷が、最初から心に引っ掛かっていた。急遽、方向転換をする事にした。
「猿ケ城に移転したい。」
突然の申し出にも拘らず、父は一も二もなく賛同してくれた。決断は早かった。事業計画の見直し、目論見書の変更を急ピッチで進めながら、猿ケ城に用地を求めて探し歩いた。山あいの土地にそれ程の平地はない。一週間もすると行き詰った。でも悲壮感はなかった。この事業は何とかなる、もう誰にも止められない。信念みたいなものが、自分の中に生まれつつあった。時の氏神は身近にいた。
「オレの山に連れて行くから、ついて来い。」
相談に行った私の話も聞かずに軽トラックに乗り込む叔父、宮迫豊治を慌てて追いかけると、渓谷の中にその黄金郷があった。うっそうとした竹林、杉林を大きな自然木が囲み、その中に長い年月を経て、半ば土に埋もれた多くの巨石が点在していた。そこの里道をぬって行くと奥まったところに、足も踏み込めない程の雑草に覆われているものの、わずかに開けた土地があった。ここだ!理想郷だ!見た瞬間に身が震えた。
「叔父さん、ここに焼酎工場を・・・。」
恐る恐るの言葉も言い終わらないうちに、
「おー、好きに使え。いけんでん(どうにでも)使わんか。」
理屈も何もなかった。言葉もいらなかった。家に帰るとすぐ父に電話した。
「素晴らしい土地があった。これは天の啓示だと思う。」
「悟空の夢」
 猿ケ城蒸溜所にちなんで、“悟空の夢”と名付けた小冊子に思いを綴った。
そして計画を知って訪問された全国各地の酒販店に、近況報告の“悟空通信”を発行した。着工前の早い段階から、支援の輪が広がった。ガンバレと励ましの電話や手紙が、日毎に増えて行った。そして悟空クラブという応援団が誕生した。
 一生懸命に焼酎を造ります。その焼酎を、一生懸命に売ります。焼酎を軸に、思いはつながって行った。支援の輪は、ほぼ全国を網羅した。造った焼酎を、売り切ることを前提とした事業計画に、徐々に肉付けができていった。しかしそれも、旨い焼酎を造ってこその話である事を、肝に銘じた。
「いいですよ。私が面倒みましょう。」
 「お父さんが焼酎造りをするんだったら、僕も一緒にやる。」
工業系の高校を卒業目前の、次男大次郎が言った。普段は自分の意見をはっきり言わない次男坊の決断と申し出はうれしかった。心が弾んだ。
父と息子、そして家族・親戚が私を支えた。ありがたいと思った。
 そしてこの次男が約半年にわたってお世話になった鹿児島県工業技術センターの高峯先生の紹介で、名工杜氏とうたわれる吉行(よけ)正己氏と出会った。
焼酎ブームのご時勢に、新しい蔵に来てくれる杜氏さんがいるのだろうかという不安があった。
 吉行さんは、最初の出会いで、「いいですよ。私が面倒みましょう。」と言った。またしても拾う神の出現だった。拾う神は、いつも細かい事は言わない。鷹揚だった。「だけど、私も現在の仕事があるから、そんなに時間は取れませんよ。週に2回程度だと思って下さい。」と、言っていた吉行さんが、毎日来てくれている。吉行さんの現職、指宿酒造(協)の皆さんに感謝の言葉もない。それと「この蔵は、オレが行かないとおぼつかない。なんとか成す。」という吉行さんの熱い思いの表れだ。また助けてもらった。
 そして、先輩の岩元拓夫さんが「オレの出来る事があったら加勢をする。暫くは給料はいらん。」毎日鹿児島市内から来てくれるようになった。
「栄寿さんが焼酎工場をするなら一緒にやると決めていた。会社にはもう辞表を出してきた。とめやんな(とめるな)。」旧知の岩山彰さんが、有無を言わせなかった。
私と一緒に、最前線へ飛び出す“志願兵”が集まってきた。
この人達をガッカリさせる訳にはいかない。
事業推進の大きなバネになった。
「地鎮祭。いよいよ時が刻まれだした。」
 監督官庁である国税庁より移転内免許の交付を受けて、平成十六年六月十日いよいよ建築着工の時が来た。ドラマの第一章総仕上げの時間が刻まれだした。
「9月までの竣工を、お願いします。」信頼する建設会社の和田社長は、私の無理難題を引き受けてくれた。またしても言葉は大して必要なかった。
 梅雨に入ったのに基礎工事の間、不思議と雨は降らなかった。猛暑の中の、不休の工事も怖くなる程順調だった。9月になって週末毎に台風がやってきた。猿ケ城渓谷を抱く高隈連山の向こうを通る台風に、竣工前の我が蔵はびくともしなかった。
棟の高い大きな蔵が、実に頼もしく見えた。
「食事が喉を通らない」
竣工は通過点にすぎなかった。それは、何とも言えない苦悶の日々の始まりだった。
平成十六年十月十六日、仕込みがスタートした。神の領域に足を踏み込んだ、と思った。どんな焼酎に仕上がるか、全く考えも及ばない。不安感はどんどん増幅して行く。
「一年目は、焼酎になればいいと思っていなさい。」吉行工場長杜氏は、私を諭すように言った。しかしそれで私の気が休まる程、事は単純ではない。眠れない夜が続いた。一睡もしないで、そのまま蔵へ向かう日が多かった。「食事が喉を通らない。」妻が卵をいっぱい入れたおかゆを作ってくれた。押し込むように流し込んだ。十月、5kgやせた。
「こりゃ、最高の焼酎じゃ」
 平成十六年十一月一日、奇しくも“焼酎の日”。初蒸留。
朝から蔵の空気が、ピンと張り詰めていた。蒸留機がコトコト動き出した。暫くすると、かめ壺に焼酎が溜ってゆく。甘い焼酎の香りが、立ち込めてきた。
利き酒をする吉行さんの周りに、蔵子達が集まって来た。緊張はピークに達した。鼓動が一気にフルスロットルになった。
「旨い!こりゃ最高の焼酎が出たぞ。」
吉行さんの言葉に、喚声が上った。蔵が沸いた。
「社長、もう安心じゃっど。心配いらん。」
確かに旨かった。掛け値なしに。
今度は、天が助けてくれたんだ、と確信した。
「天高く、柿熟す。」
 みんなの思いを詰め込む焼酎の名前が、創業時の銘柄「八千代」を伝承する「八千代伝」に決まった。ラベル製作は従弟の福島哲朗が主導した。満足の仕上がりだった。
ビン詰め作業に手弁当の加勢人達が、ぞくぞくと集まって来た。
 あとは、一気呵成。新酒無濾過「復刻 八千代伝」、初蔵出しの準備が始まった。広い蔵が人と資材と焼酎で埋まった。
 平成十六年十二月二十日、大型トラックが横付けになって「八千代伝」を満載した。
初蔵出し。皆で万歳を叫んだ。あらん限りの声で叫んだ。
「行ってこい、八千代伝。」
不覚にも涙が止まらなかった。みんな泣いていた。
“天高く 古里の野に 柿熟す”
オヤジの最新作が、猿ケ城の天空に、くっきりと絵を描いた。

-追記 -
蔵に、柿の苗木を植えた。8年後、枝もたわわに柿が熟すだろう。